田舎と都会の温度差

田舎に住んでみて2ヶ月、まぁそれなりにロハスな生活をしている。
循環を意識して、ほぼ菜食、農園と地産地消。それがあたりまえになってくると日々の生活はロハスなんて言葉を意識しなくなる。
つまりロハスってのは、ロハスでない日常にあってはじめてロハスなのではないだろうか。世の中の道理とも通じる。相反するものがあってお互いが際立ってくるような感覚。


僕は前から田舎人と都会人の意識のギャップについていろいろ心に引っかかることがあった。これだけエコとか環境を叫ぶ世の中なのに、それを発しているのはいつも都会の人のような気がしたからだ。
それは、自然環境の乏しい地域に住んでいるからこそ、エコや環境についての意識が高まるとも思うし、相反するものへの意識が自然に高まるのも、先に書いた道理と同じことかもしれない。
となると田舎の人はもっと都市的な生活を望み、より便利で電化され高密度住宅に住み、そして開発を望むのかもしれない。
田舎に来てみると、エコや環境を叫ぶのはどこか道楽に思えてくる。都会で同じ価値観の人に出会うのはたやすいことだったが、田舎では個々のパーソナリティが目立ってくるので、あまりディープにやるとただのモノズキになってしまう。
しかしこの違いの大きなポイントは、世の中に対しての主体性を如何に発揮できるかということでもあった。都会のほうがその主体性を発揮しやすい。個々が目立たないほうが、自分の考えで自分で決めてなんでもできる。しかし田舎では時々躊躇する場面があるかもしれない。自分は新参者だからまだ気を使わないでいいかもしれないが、そうでなく地域に根ざしてきた者はそうはいかないような気もしている。そこにしがらみや根深いオリジナリティに対する免疫のない日本人の特徴が浮き彫りになる。
日本は随分といい意味でも悪い意味でもあか抜けてきたと思ってはいたが、それは東京や大阪に住んでいたからで、本質的に大部分の日本には、やはり日本人のDNAが脈々と生きていた、という感じを得たわけです。
でも田舎人が都市的な生活を渇望するのであれば、そういったあか抜けた感覚も得たいわけで、出る杭になってみるとか、モノズキに目立ってみるとかいったパラダイムシフトを経験するきっかけが必要だとも思う。
田舎ほどエコではない生活に、そして多くの放置された山林や田畑といった環境を左右することのできる土地を有効にそしてロハスにしていくには、そういった都会人の情報と意識を田舎人にもマネしてもらうようなことにならないと、本質的に日本の国土は破綻してしまう。
都会の人が山や自然を大切にしたいと訴える。
田舎の人が金になる土地売買や土木を中心に開発を望む。
この相反することの中にエコを本質的に行動する仕組み作りのヒントが隠されているのかもしれない。
田舎にとって賃金や収益を得ることは都会に比べて難しい。
だから都会の精神的な余裕の部分がどうしても薄い。それは都市的な生活を望むときに薄くなるだけで本質的に田舎は自給率や百姓的な自立力からの余裕もある。
その余裕どうしが同じ方向に結ばれるにはどのようにすればいいのだろうか。
田舎暮らしや玄米菜食といったものが、決して貧相に映らず、パーマカルチャーやマクロビオティックのようにスタイリッシュに楽しめる魅力的な現代的ライフスタイルとしてもっと俗っぽくともトレンド化するようなマーケティングが無いとダメなような気がした。この世の中は間違っている!エコでないものは公害だ!的な反社会性、反潮流のようなことでは、この田舎と都会のギャップは埋まらないと思う。
そういう意味でスタイリッシュ&トレンディでロハスという感覚はもっと田舎に広まってこそ、その本質的な相乗効果が発揮されるに違いない。
決してエコ生活が清貧であっても貧相に映っては世の中は良くならない。清富であってエンターテイメントであって、そしてキモチよく映ることが何よりも人を動かすあたりまえのことでなくてはならないだろうl。

This entry was posted on 土曜日, 9月 16th, 2006 at 6:56 AM and is filed under カルチャークリエイティブ, 社会風潮. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.

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