嗚呼人生修行也

結局のところ自分の状況や、環境や、欲望や、身なりや、能力や、経済力にとらわれずに、またそれらに優劣や善悪の判断をつけること無しに人生をおくればいいようだ。
しかし、何をするにしても、その本当の純粋な動機のクオリティを保つことと、温和で怒らない、嫌悪しないこと、つまり常に非暴力でいることが人生のもっとも根幹的な意味のようだ。
純粋な動機から沸き起こる想いと言動と行動を常に一致させて、外的な影響に反応することなく、静寂に立ち振る舞うこと。これを日々の生活において常に行うことがつまり修行であり、生まれてきたからにはやり遂げて帰らなければならないことのようだ。


この純粋な動機というものを見つけるのも一見苦労する。
いいことをするにしても、悪いことをするにしても、献身的であれ、姑息であれ、問題は動機そのものであり、この世にあるものに善悪は存在していないのではないだろうか。
動機が純粋であって、外的要因に反応しないでいられるならば、想いと言動と行動はたやすく一致する。そしてそれがいわゆる本来の姿であって、本当に目指す地点(の入り口?)かもしれない。
いろんな社会生活や、対人関係が複雑に押し寄せてくる毎日ではあるが、不足しているものはなく、すでに必要なものは与えられており、全ての問題や災難、また幸福や歓喜は自己の投影でしかなく、そういった優劣、善悪を感じることこそ、動機の不純さに気づくきっかけであるようだ。
良くも悪くもなく、金持ちでも貧乏でもなく、醜くても美しくてもなく、うれしくても悲しくてもなく、楽しくても落ち込んでもなく、安心でも不安でもなく、、、、、そんな境地とはいわゆる非暴力つまり無反応の境地であり、生きる動機が純粋に輝きだすきっかけでもあるようだ。
この一見、退屈そうな、つまらなそうな状態(そう感じていることがエゴというものだろうけど)を、保つことができた先にあるのが、きっと○○だろう。
そんなつまらない人生をたぶん恐れてしまうだろう。
しかしそのときの自分のパワーはきっとものすごいんだと思う。戦争を無くしたり、地球環境を改善させたり、人を救ったり、なにもかも問題なしの状況になりそうだ。
毎日の日常が、毎日のこの世の問題が、自分の動機を純粋に磨けるためにある。
だからいつの時代も変わらず問題が山積している。そう、何も変わらずに何千年も同じ問題と悩みと紛争を抱えているこの世の中がこれからも変わることはないが、そうでない世の中に変えて見たような世の中になることはできそうだ(国語的な意味がわかりにくいがなんとも言葉にならない。。。)
時々人々に起こるPE(ピークエクスペリエンス)は、本当にヒントになる。一瞬のひらめきを直感的に解釈できると常に意識しておくことを忘れないようにしたい。
修行とは、日々の生活において、常に動機を純粋に保ち、非暴力的でいること。
最近少しシンクロニシティしたのでここに記録しておくことにした。
しかし、イライラしたり、嫌悪したり、歓喜したり、感情が暴れだすね。
きっと努力してだんだん治っていくようなものではなく、ある程度の努力期間を超えて、一瞬でそうなるような気がする。最悪の事態に転がり落ちることは本当に無いと信じられれば、いつだってそう努力していられるのだろう。まだまだそんなところまではとてもとてもだね・・・

This entry was posted on 月曜日, 10月 6th, 2008 at 1:20 AM and is filed under カルチャークリエイティブ, ココロの思考記録. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.

2 Responses to “嗚呼人生修行也”

  1. 匿名 より:

    synちゃん、お久しぶり&いつもお世話になっています。
    このまえ、プロセスワークのセッションやってもらった時に、身体のねじれと痛みを自分がわざと作り出していて、なぜ、それをやめないかというと、「やめたほうが痛みもなくなるし楽なんだけど、つまんないから」そう、自分のココロの声が言いました。
    周囲の出来事を妙に静かに見ている自分がいるな、と気づいた時に、なんか物足りない気分を感じたこともあり、なるほどなと思ったよ。

  2. syn より:

    ん?誰や!(笑)

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