困っている人を助ける

究極的な人生の目的とは、困っている人を助けることじゃないかと思った。
ただそれだけで、なにも発展進化や経済的充足に目的があるわけではなく、生まれてきてから死ぬまでに、何かに困って誰かに助けてもらう。そして困っている人を助ける。
この相互扶助の成り立ちこそが、シンプルな目的であるかもしれない。
というのは、


人は決して経済的持続性を維持するための生活をおくるために生きているわけではないはず。経済がひとつの手段であるかもしれなが、それ自体が目的となっている今は、少し違うかもしれない。
お金という発明が、様々なことを効率化し、平等を計り、価値を決めてきた。
しかしながら、困っているという価値がお金で図られた瞬間に、助ける価値が消えうせる。なぜなら、それらの経済的価値が均等になるかならないかなど本来どうでもいいことなのだから。
単純に、食べ物に困る人がいるので、作物を作ろうとか、食べ物に困っているので、誰かに世話してもらおうというこのバランスが心地いいとき、それは幸福であり、生きている目的かもしれない。
自分探しが止まらない人は、自分のしたいことを見つけること、そして自分のしたいことが経済的メリットも両立することで世間に認められるという妄想をもっていることに悩み続けると書いたが、そのもっと究極的なことは、困っている人を見つけられていないということに尽きるかもしれない。
自分の能力の得意不得意はあるけれど、それに見合った困っている人ではない。自分が助けられる範囲の困っている人ではない。単純に困っているだろうなと気づけることと、自分の能力の有無にとらわれずに、助けようと行動できること。
お金持ちがいくらお金を得ても、満足しないことが多い。
自己実現もいくら実現して見かけの満足に酔いしれても、また次が始まる。
この堂々巡りの理由は、困っている人を助けていないからだった。
また困っていると感じる感受性もさることながら、困っているとわかっていても行動できない欺瞞性、怠惰。
乗り越える壁は幾多もあるけれど、それを克服することが、専門的な能力を高める訓練よりも必要なことなんじゃないかと思ったわけです。
そして、困っている人というのは、欲求が満たされなくて不満足に陥っている人ではないと思っています。その人の希望を叶えるというのは、美しいことですが、なんでもかんでも満たしてあげることは、次の不満足を生み出すことなので、うまくやらないと逆効果でしょう。
なので、サービス業とか、商売自体が、困っている人を助けていることになりにくい理由がここにあります。
そんなことをしていると、経済的なデメリットを享受し貧乏になるかもしれません。
しかし本当にそうなのでしょうか?
経済的資産というのは物理的なモノを指すのではなく、一種の気のエネルギーにもあてはまります。
自分が所有している資産だけでなく、この世に流通している資産を活用できるようになれば、自分だけに所有しようとする行動がとても空しいものにも見えてきます。
必要なときには、必要な分のエネルギーを流通させる気の巡りは、先にも挙げました、感受性の向上と欺瞞性の解決によってお金に困らない境遇を作れます。決して余剰エネルギーを銀行に蓄えることという結果に繋がらなくても、おそらく困らないと思います。
困っている人を見つけ、欺瞞性を解決(つまり見返り無しで即行動可能な状態)して、行動している時こそが、究極の自己実現の瞬間ではないでしょうか。

This entry was posted on 木曜日, 10月 14th, 2010 at 6:31 PM and is filed under セルフクエスト. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.

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