ミラレパ―チベットの偉大なヨギー

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おおえ まさのり (翻訳)
チベットの昔のヨギの伝記です。
金持ちで生まれ一転、親戚の横暴にて極貧人生へ、そのときに溜まった悔恨の念が彼を呪術師にし、多くの恨みある人々を殺害した極悪非道の人生前半。
その後、呪術師としての修行から改心し、そのずば抜けた忍耐力、精神力、そして体力、気力を持って、この世の生の中で、仏陀にまでなり、カギュー派という宗派を開き、この世を去る。
読んでいて、怖くなったり、本質的な人生を歩むには、ここまでの忍耐力が必要になるのかと少し落胆したり、ちょっと笑ってしまったりと、喜怒哀楽ありの物語りになっていて、文字も大きく非常に読みやすい本でした。かなりはまり系のありがたい本です。


グルに対する完璧な忠誠心と、この世の俗物の全ての放棄、そして自分の体や心までも放棄し修行に専念する。その完璧さはとてもとても現実的に考えられない(僕自身では)ことですが、彼のときどき詠う、詩を読んでいれば、自分がこの世に降り立った偶然のありがたみと、人生というものの構造がよくわかってきます。
日ごろの清貧で誠意ある生活を送ることの重要性と、執着をもたない心のありようについて、チベット仏教の本を読むたびに思い出されます。実際に実行できているのかというとそうでもないのですが、この社会に生活している限りそれはかなり困難なことで、グルについていわゆる出家することでの、理想生活の達成を試みる、宗教的生活の必要性を説きます。
誘惑に勝つことは難しい。だから誘惑の無いところで生活する。騒音の中で静寂を得るのは難しい。だから騒音の無いところで生活する。時間に追われた生活で瞑想するのは難しい。だから時間に終われないところで生活する。しかし、それを突き詰めていくと、宗教的出家も去ることながら、人の基本的な営みの根本生活にも行き着くと思ったりもします。
それは原始生活にもかぶる部分もありますが、今の時代に生きるわれわれにある知性を持って、それなりの自然共生を目指す選択枝にも可能性を感じます。悟りを得るというより、執着と2元性を持たない生活の中で幸福を垣間見れるとも思っているのです。
この本の中で執着とは、モノや欲望はもちろん、楽しいとか気持ちいいとかいったことも放棄しています。それには必ず2元性(その反対のものも必ずついてくる)が伴うからです。上があれば必ず下もある。正しければ、間違いもある。そのどちらでもないところ。金持ちが貧乏になる。幸せ生活が不幸に陥る。その差をどんどんと縮めていく感覚。少しの幸せに満足して、少しの不幸を耐える感じでしょうか。限りなく点になっていくと、きっと悟りである「無」の境地があるのだと思います。
しかしもちろんのこと、並大抵の精神力では、、と自分でも自身はないし、多くの人々もそうだと思いますが、それを理想に掲げ、意識して目指す行動も大切だと思うわけです。
それは我慢するのではなく、必要でなくなるといったことにも近いですが、その並大抵の精神力ではと、、大きな山を見ている今と違って、いつかは、そうでもない、そういつのまにか、山に登っているので、当たり前の感覚になっている時もあるのではないかと思うわけです。そうでないと、人々は救われないでしょう。
ミラレパは、ひとつの究極の道を示してくださっています。
それがあるから安心して、それなりの生活を送っていける可能性を後世の人々に希望が感じられるのだと思います。伝記として物語として、教訓として、励みとして、とてもためになると思います。
しかし、この出家生活の必要性を濃く説いておられますので、様々な宗教団体もそれに沿った試みをされることでしょう。直感を働かせて充分注意することも大切かと思います。この部分だけでも利己主義の観点を離れて考えれば道ははずさないと思います。

This entry was posted on 日曜日, 11月 2nd, 2008 at 3:59 PM and is filed under Mental, ミスティック. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.

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